ここでは武井守成氏が残されたマンドリン合奏に関することばを掲載しています.ごく少ないですが,いろいろと興味深い内容かと思います.
なお,原文は旧仮名遣いですが,読みやすくするために現仮名遣いに改めてあります.
- ヴァイオリンの名奏者が必ずしもヴィオラの名奏者となり得ないように,マンドリンが奏けるからという理由でマンドラがひけるとは言えないのである.マンドラ(ここでは主としてテノーレを言う)の音性を実際に生かすためには最小限1年はこの楽器に親しまなければならないというのも決して誇張したことばではない.
- 演奏技巧が優れているからといってアンサンブル奏者として優れているとはいえない.要は合奏奏者としての感性のよさの如何にかかっている.そしてその感性が音楽への心の動きの如何で生まれることを知ったならば,技巧が下位にあるからというだけで合奏奏者としての素質を下位と定めることは危険である.
- 自己のパートが休止に入ったときに,自己の仕事が休止されていると考える奏者は自己のパートの譜だけをひいているもので曲を演奏する分子として価値がない.休止符は音を出さずして心でひくときである.なぜならば奏者は自己のパート譜を通じて全楽器から成り立つ曲をひくべきだからである.
- やむを得ずとっている手段ではあるが,マンドラコントラルトとマンドラテノーレを同一奏者がひくことは優れた方法ではない.如何となればこの両楽器には奏法,その他において根本的な相違があるからである.
- 第一拍を低音でたたくようにかかれたギターパートにおいて,常に第一拍を強く奏するものと考えるのは幼稚である.そして定型的な和音を月並みに奏するのがギターパートであると考えていることはさらに幼稚である.
- 初歩の奏者は十六分音符以上の細かいノートを見ると必要以上に速くひいてしまう.奏ききれずに遅くなるのも困るが,さりとてむやみに急ぐのも同一程度の低級さである.
- 旋律はたとえ何の強弱記号も記されてなかったとしても決して同じ大きさで過ぎていくものではなく,そこには必ず流麗な抑揚があるべき筈のものである.しかしそれは意識的に抑揚をつけることを意味しない.すなわち奏者の内心に働くものが自然にあらわれたものでなければならない.旋律の根源的なものが奏者の心に宿ることの必要はここにある.
- 従的な立場にたった楽器が主要な立場にある楽器よりも速く動くことは原則的に言って非音楽的である.しかしそれを特に必要とする楽曲もないではない.
- 音質と音量とにおいて義甲楽器の打掬の完全に一致するのを見ることはきわめて稀である.しかしこのことは単に難しいという理由だけで片付けることができない.なぜならば多くの場合奏者の努力が足りない結果であることを知るが○(判読できず)である.
- トレモロとスタッカートとが連なっている場合,そのいずれかが他よりも音量において増すことがありはしないかということを,常に注意する必要がある.人により,場合により,あるいはスタッカートで大きくなり,あるいはトレモロで大きくなる.警戒の第一歩である.
- 合奏は多数の奏者が集まって行うものであり,一人が奏くのとはわけが違う.したがって一人だけが仮にうまく奏いても合奏としての全的価値は上がらない.この多数の奏者が内的な要素において一人の人と同じようになりきったときに真の力が生まれる.
- 独奏のギターとアンサンブルのギターとが異なれる楽器でないと等しく,演奏技巧もまた決して異なれるものではない.しかも多くの奏者はこれを別ものとみなしている.
- 合奏にあっては指揮者が奏者であり,奏者は楽器であるとの言葉は誤りではない.しかし同じ楽器でも一は死んだ楽器であり,一は生きた楽器でなければならない.